乳汁栄養法は主に母乳であった。
この時代になると人工栄養(代用栄養品)の種類も増えてきた(図1)。
しかし、新生児には母乳を与えるのが原則で、不足しているときには貰い乳が勧められている。
図1.昭和時代(Ⅰ期:昭和2年~15年頃:1927~1940年頃)の乳汁栄養法
地域によって差があるが、人工栄養児は2~5%、混合栄養児は7~20%、母乳栄養児は90~71%であった2)。
人工栄養のうち牛乳栄養法では、まずは牛乳を希釈して慣らさせ糖質とビタミンCを補給することを勧めている。粉乳は品質が向上したが、加糖練乳は成績が不良であったため勧められていない1)。
ところで昭和前期には新生児死亡率ならびに乳児死亡率の低下(図2)がみられる。
図2.人口動態総覧(率)100年の年次推移(明治32年~平成10年)
その説明として、明治・大正期の農村では女性の労働負担が大きく、出産後には農作業中の授乳回数(3回程度)を少なくして長い労働時間を確保した。
他方、少ない授乳回数は産後の早い時期から授乳分泌量を減少させた。
このため以下の様な過程で推移した。
大きな労働負担⇒低い授乳頻度⇒母乳不足⇒発育不良(栄養不良)
⇒宿主の抵抗力<病原体の感染力⇒高い新生児後(乳児)死亡率
一方、昭和に入って新生児死亡率が低下したのは、女性の労働負担は変わらないものの1930年代の農村では穀物類だけでなく、練乳や牛乳の使用が一般的であったこと、粉乳が使用され始めたことによる。
村越(2017)の見解では下記の通りである。
大きな労働負担⇒低い授乳頻度⇒母乳不足⇒粉乳などの利用(混合栄養)
⇒良好な栄養状態⇒宿主の抵抗力>病原体の感染力⇒新生児後死(乳児)亡率の低下3)
つまり新生児死亡率、乳児死亡率の減少の要因として、人工栄養の種類が増え、混合栄養が可能になったことが影響したと推察できる。
このように昭和前期は引き続き人乳が中心で乳汁栄養法は主に母乳であったが、一方で人工栄養(代用栄養品)の種類が増えてきた時代でもある。
地域によって差があるが、人工栄養は2~5%、混合栄養は7~20%、母乳栄養は90~71%であった2)。
【引用・参考文献】
1. 中鉢不二郎、1940、『乳幼児栄養法の実際』、金原出版。
2. 宇留野勝正、1974、「我国における乳児栄養法の変遷」、『東京家政大学紀要』、第14集、147-154。
3. 村越一哲、2017、「乳幼児死亡率低下に与えた『栄養摂取改善対策』」の影響-1930年代の農村を対象とした検討-」、『社会経済史学』、第83巻、第2号、(171-192)3-24。
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