【離乳栄養法-4】激動の昭和時代~赤ちゃんの食は守られたか

1.昭和前期(昭和15年頃まで~1930年代)

1930年代は不況の時期であり「昭和初期の社会形態は大正デモクラシーと昭和ファシズムの間にはさまれて国内的矛盾が国民の生活に直接影響を及ぼした。」1とされる。乳児の栄養は母乳が主であり、人工栄養は10%内外であった。この時期には、人工栄養(粉乳や練乳)による乳児壊血病が多かった2

なお離乳食に関しては

①開始時期:生後半年~おそくとも7~8か月

②形態:そしゃくを必要としないもの

③進行:1歳前後になれば、1日3回は食物のみ、他に2回授乳する。

乳汁は母乳でも牛乳でもよい

④真の離乳:乳離れは1歳半以後であり、2歳までに完全離乳をする3

が基本的な考え方であった。これに加えて

①離乳開始に関しては梅雨から夏は避ける、

②離乳開始には体重を考え、6500g~7500g(生後7~8か月)になったら

離乳の準備を始める4

とよいという考え方もあった。

2.戦時体制下(昭和24年頃まで~1940年代)

1937年(昭和12年)に日清戦争がはじまり、1941年(昭和16年)には第二次世界大戦へと進んでいった。戦時中は食糧事情が悪化したことは知られており離乳食への悪影響が懸念されるが、戦争下によるデータの欠損時期1944年(昭和19年)~1946年(昭和21年)を除いて、乳児死亡率は低下している(図 4)。

その理由として乳児死亡率低減を推進する保健政策の影響(ⅰ)があったと思われる。つまり、終戦までの総力戦体制下は、戦争のための人的資源増強を目的に、女性には丈夫な子どもを生み育てることが要求された。このため健康教育を主とした育児知識の普及が図られ5)乳児栄養の研究6)も精力的に行われ育児の質が向上した。1941年(昭和16年)には国民食実施例として離乳の進め方も示された(表2-1,表2-2)。これらの影響を受けて乳児死亡率が低下したと考えられる7)。しかし国内の経時的視点からは乳児死亡率は低下したものの、海外に目を向けると日本の乳児死亡率はまだ高かった(表 3)。

戦時体制が長期化し食料不足が深刻化すると、さなぎ、いなごの利用、貯水池、水田を利用して鯉、鱒の養殖、川魚の利用、あるいは山羊乳、兎肉、鶏卵、鶏肉等によって蛋白質を摂取し、脂肪摂取のためには、ごま、あるいは落花生、菜種油、ひまわり等を推奨し、地方の自然を活用した食材によって、栄養補給を勧めている。しかし「離乳期栄養状況調査」によれば、離乳期には乳以外のものとして与えていたのは粥、おじや、重湯など穀物をやわらかくしたものが主であった。それだけではたんぱく質が不足するので、練乳・山羊乳・粉乳も併用していた8。1940年(昭和15年)には「牛乳及び乳製品配給統制規則」が施行され、牛乳・乳製品は母乳が足りない満1歳以下の乳児にのみ配給されるだけとなった。それも戦争が長期化すると、牛舎は壊滅状態となり乳牛の飼育が困難になった9)ため、授乳や離乳食への利用状況は不明である。

3.戦後(昭和34年頃まで~1950年代

終戦直後、国民すべての命を保証するほどの食料はなかった。1945年(昭和20年)8月15日に終戦を迎えたが、当時の食糧不足は深刻で労働力の不足、肥料の不足、その他戦時下の無制限な増産計画などの悪条件が禍して、同年産米は前年の約7割に過ぎず、明治末期以来の大減収を記録した。1946年(昭和21年)になるとさらに悪化し、代用品さえ間に合わず遅欠配が始まった。政府は連合国軍司令部(GHQ)に食糧援助を要請したが、科学的根拠のある資料の要求があり「国民栄養調査」(ⅱ)を実施した。その結果、食糧不足の深刻さが証明されGHQと米国政府からの食料援助が行われた。米国の宗教団体を骨幹とするアジア救援公認団体(ララ)からは、莫大な救援物質(全乳、脱脂粉乳、砂糖、ベビーフード、乾燥果実、大豆、肉、乾燥卵、缶詰、小麦等)が送られている10。このような援助があったものの「乳児栄養は終戦から2~3年は最悪の状態であった」11)とされている。しかしその後約10年は日本における乳児栄養は大きく進歩した。とりわけ、離乳食に関しては、文部科学研究離乳班により「離乳基本案」(昭和33年,1958年)12)が発表され、その後20年にわたって離乳の指針となった。これは日本では、離乳が初めて学問的に共同研究されたものである。

4.昭和後期(平成元年頃まで~1989年)

経済状況が好転し、食糧が豊富になり1960年(昭和35年)以後小児肥満が問題となった。それまではエネルギーや栄養素摂取量の不足が問題であったが、過剰摂取への対応が課題となった。また小児の病気や異常に関する研究が進められ、食物アレルギーの診断方法や食物除去に関する情報提供が多くなった。

離乳では、厚生省心身障害研究による研究班が「離乳の基本」を1980年(昭和55年)に発表した12。これは、「離乳の基本案」が発表されてから20年以上が経過し、その間に栄養学は進歩し、乳児の発育は向上し、市販の離乳食品(ベビーフード)の利用も多くなるなど、乳児を取り巻く状況が変化したためである。この変化に対応できるように新しい栄養学的見地と社会条件を基とした離乳の方法が研究された結果である。

【引用・参考文献】

1. 清水勝嘉、1978、「昭和初期の公衆衛生についてー母子保健―」、『民族衛生』、第2号、52-66。

2. 栗山重信、1951、「乳児栄養法の変遷」、『小児科臨床』、4(12)、1―7。

3. 中鉢不二郎、1960、「日本の乳児栄養法の回顧」、『小児保健研究』、19巻1号、1-5。

4. 今村栄一、2002,『新・育児栄養学』、日本小児医事出版社。

5. 茂木潤、2014、「大正後期から戦後の乳幼児審査会の歴史的役割に関する研究」、『東洋大学大学院紀要』、第51巻、293-317。

6. 武藤静子、1944、「乳児ビタミンC源としての青菜蒸絞汁」、『日本医事新報』、第1142号、10-11。

7. 真鍋智江、2019、「総戦力体制下における乳児死亡率の低減―愛育研究所保健部による乳児栄養の改善をめざした研究に焦点をあててー」、『日本子ども社会学会紀要』、第25巻、147-165。

8. 村越一哲、2017、「乳幼児死亡率低下に与えた『栄養摂取改善対策』」の影響-1930年代の農村を対象とした検討-」、『社会経済史学』、第83巻、第2号、(171-192)3-24。

9. 東四柳 祥子、2013年、「日本におけるミルクの歴史」、『ファクトブック』、12、

https://www.j-milk.jp/report/study/h4ogb400000011y2-att/h4ogb4000000120f.pdf

(2022年11月19日アクセス)。

10. 藤澤良知、2008、「戦中・戦後の食糧・栄養問題」、『昭和のくらし研究』 昭和館 編 (6)、5-17、2008-03、

https://www.showakan.go.jp/publication/bulletin/pdf/06_fujisawa.pdf

(2022年11月20日アクセス)。

11. 今村栄一、1984『育児栄養学』、日本小児医事出版社。

12. 今村栄一、1980、『離乳の基本』、今村栄一編著、医歯薬出版。

【脚注】

(ⅰ)厚生省(現厚生労働省)は1938年1月11に設置され、それ以降「産めよ増やせよ」をスローガンに「人口政策確立要綱」(1941年1月22日)や「国民医療法」(1942年2月25日)などによって、保健所を中心とする育児知識の普及が進められた。

こうした保健政策は、1937年7月7日に日中戦争、そしてアジア・太平洋戦争(1941年12月8日)へと流れていく中で、国家総動員法(1938年4月1日制定)による「国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最モ有効ニ発揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スル」総力戦体制と結びつき推進されたといわれる。

(ⅱ) この調査は戦後の貧困状態にあった1945年(昭和20年)に海外からの食料援助をうけるための基礎資料を得る目的で連合国軍司令部(GHQ)の指令に基づいて調査実施したことに端を発し、現在も実施されている。

表 2-1 離乳の進め方(国民食実施例, 昭和16年)

a.母乳栄養の場合

b.人工栄養の場合

表3 出産100に対する海外の乳児死亡率

注:T は大正、S は昭和の略である。

出典:生江孝之、「乳幼兒愛護週間と模範的施設」、『児童保護』、第 2 巻第 4 号、日本感化教育会、1932 年、pp.2-3

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