【おっぱいは誰のもの?ー乳児栄養法の変遷⑤】

戦後(昭和34年頃まで~1950年代:現代)

終戦直後、国民すべての命を保証するほどの食料はなかった。1946年において配給から得られる成人1日のエネルギー量は1209kcal、たんぱく質32.2g,だけであり、配給だけでは命を繋ぐことはできなかった(中村 2020)1)。このような状況下で母乳を十分に与えることができたかを国民栄養調査[1](現在の国民健康・栄養調査)で確認した。母乳分泌不良の発現率をみると、戦後直後(1946年~1948年)は30%以上と多く十分な母乳を乳児に与えられない状況があった。(図15)。

図15母乳分泌不良の発現率(%):「国民栄養の現状」昭和22年~30年版(厚生労働省)

その後国民の栄養状態も向上し、1950年~1953年には母乳栄養は70%以上で推移していたが、次第に減少し1958年では50%代になってしまった(図16)。

 図16.東京都の乳児の離乳食開始までの栄養法の比率(一斉検診における調査)

【参照】松下富之助1971「新生児退院指導方式が児と母に及ぼす影響.母乳栄養の減少傾向とその背景に対する文献的考察」.〖日本総合愛育研究所紀要〗第7集.30-40、1974

これは人工栄養の改良が進んだ影響である。1950年には母子愛育会小児保健部が人工栄養の方式を発表し、1951年に「乳及び乳製品の成分規格等に関する省令」が公示され日本で初めての調製粉乳の規格が定められた。この結果、育児用粉乳の改良が進められ、1955年には未熟児用ミルク(低出生体重児用調製粉乳)も販売された(図17)。

図17.昭和時代の乳汁栄養法(昭和24年~34年頃:1949~1959年頃)

図18 戦後日本の栄養状態の改善の経験とその改善(独立行政法人国際協力機構JICA)


しかしこの時期には乳児死亡率(図18)は減少しているものの、栄養法別乳児死亡率を見ると1957年の時点で成熟児において母乳:混合:人工=1:2:3、低出生体重児においては母乳:混合:人工=1:2:4であり、母乳栄養児より人工栄養児の死亡率はまだ高かった(今村 2005、56)2)

このように終戦後1953年までは母乳栄養は70%以上であったが、その後人工栄養の改良が進んだため人工栄養の利用が増加し母乳栄養は50%程度に落ち込んだ。ただし栄養法別乳児死亡率を見ると、母乳栄養より人工栄養の死亡率はまだ高かった。


[参考:1] この国民栄養調査は戦後の貧困状態にあった1945年(昭和20年)に海外からの食糧援助を受けるための基礎資料を得る目的で連合国軍司令部(GHQ)の指令に基づいて調査を実施したことに端を発し、現在も実施されている。

【参考文献】

1)中村丁次.2020、『中村丁次が紐解くジャパン・ニュートリション』、第一出版。

2)今村栄一.2005、『新・育児栄養学』第2班、日本小児医事出版社

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