戦時体制下(昭和24年頃まで~1940年代:近代)
時代背景
1937年に日清戦争がはじまり、1941年には第二次世界大戦へと進んでいった。戦時中は食糧事情が悪化したことは知られており乳汁分泌量への悪影響が懸念されるが、戦争下によるデータの欠損時期1944年~1946年を除いて、乳児死亡率①は低下している(図1)。
図 1 人口動態総覧(率)100年の年次推移(明治32年~平成10年)
図 2 出生数・出生率(人口千対)の年次推移 -明治32~平成12年
-厚生省大臣官房統計情報部人口動態調査(注:昭和19~21年は資料不備のため省略)
その理由として乳児死亡率低減を推進する保健政策の影響②があったと思われる。
つまり、1983年から1945年の終戦までの総力戦体制下は、戦争のための人的資源増強を目的に、女性には丈夫な子どもを生み育てることが要求された。このため健康教育を主とした育児知識の普及が図られ育児の質が向上した。この影響を受けて乳児死亡率が低下したと考えられる1)。
ところで戦時中における1944年~1946年の国レベルでの出生数は不明だが、名古屋市のデータからは出生数は1942年を最高にして1946年まで減少している(表1)。
表 1 出生数(人:名古屋市統計年鑑)
1937年 | 昭和12年 | 33100 |
1938年 | 昭和13年 | 30438 |
1939年 | 昭和14年 | 30805 |
1940年 | 昭和15年 | 35793 |
1941年 | 昭和16年 | 39789 |
1942年 | 昭和17年 | 40240 |
1943年 | 昭和18年 | 32017 |
1944年 | 昭和19年 | 31712 |
1945年 | 昭和20年 | 23012 |
1946年 | 昭和21年 | 16727 |
1947年 | 昭和22年 | 27448 |
1948年 | 昭和23年 | 30861 |
1949年 | 昭和24年 | 30077 |
1950年 | 昭和25年 | 25309 |
図3 出生数、死亡数の推移グラフ(名古屋市)
名古屋市の集計(図3・表1)のからみると、この時期の出生数の減少、乳児死亡率の増加は全国レベルでも同様と推察される。戦争下によるデータの欠損時期(1944年~1946年)は戦時中でも特に食糧事情が悪かった時代である。(図1、図2、図4)。
図 4 全国における出生率、死亡率
(都道府県別人口動態統計100年の動向「明治32(1899)年~平成10(1998)年」(出生、死亡、乳児死亡、死産、婚姻、離婚)(厚生省大臣官房統計情報部人口動態統計課))
図5 昭和時代(Ⅱ期:昭和16年~24年頃:1941~1949年頃)の乳汁栄養法
母乳栄養
1940年の母乳分泌状態の調査③において、農山、漁村に於ける母乳不足の主因として1.授乳婦の過労と睡眠不足、2.粗食、等であると結論付けている2)。
さらに母乳不足の原因をさぐるための食生活調査④において,対象の約1/3は妊娠中あるい
は産後のいづれかにおいて根拠のない食事制限をしている(例えば兎肉(三つ口の児が生まれる)牛肉(角のある子が生まれる))として一般妊産婦に栄養の知識の普及の必要性を述べている3)。
その後、食料不足が深刻化すると、さなぎ、いなごの利用、貯水池、水田を利用して鯉、鱒の養殖、川魚の利用、あるいは山羊乳、兎肉、鶏卵、鶏肉等によって蛋白質を摂取し、脂肪摂取のためには、ごま,あるいは落花生、菜種油、ひまわり等を推奨し、地方の自然を活用した食材によって、妊娠中及び産後の偏食を是正する必要性を述べている4)。
一方、母乳の成分に関しては、母乳に含まれる脂肪は農村よりも都市のものの方が少なく、蛋白質は都市、農村ともに少ないこと5)、母乳と食事の関連では、玉蜀黍(とうもろこし)が主食の場合には、母乳の脂肪量増加と蛋白質量の減少を認められ、稗(ひえ)を主食とする場合には脂肪量と蛋白質量が共に増加しているとの調査結果を発表している6)。
人工栄養
当時は人工栄養(代用栄養品)として牛乳、粉乳、練乳が使われていたが、「牛乳のカゼインが飛行機の接着剤に使われるようになったため、牛乳も入手しにくくなった」7)という。このため山羊乳を母乳の代用品として用いることが推奨された。
ところが、山羊乳や牛乳などの獣乳は衛生上の問題から煮沸殺菌してから冷まして利用していた。煮沸殺菌処理により獣乳に含まれる微量のビタミンCが熱で破壊されビタミンCの不足による壊血病を人工栄養児は発症しやすかった。
戦時中において果物は贅沢品とされ、野菜も不足しがちだったので、一般に食されることのなかった柿の葉、蕪の葉、大根葉、人参葉、はこべ等を用いた蒸絞汁によるビタミンC補給を行っていた8)9)。
このような状況下において、東京の京橋地区では、1940年~1942年には60%前後あった母乳率が1943年~1944年には減少し,混合栄養や人工栄養が増加している(図6)。
図6.1940年~1944年(昭和15年~19年) (東京・京橋保健館健康相談児、三原清「小児保健研究12巻2号」)宇留野勝正、1974、「わが国における乳児栄養法の変遷」、『東京家政大学研究紀要』第14集、151
図7 戦時中の乳汁栄養法(%) 1940年~1944年(昭和15年~19年) (長岡市・赤ん坊会、三宅簾、「小児科臨床3巻3号」)宇留野勝正、1974、「わが国における乳児栄養法の変遷」、『東京家政大学研究紀要』第14集、151
しかし、
長岡市では、母乳率は80%を維持していた(図7)。
一方、1937年~1943年までの新生児体重は東京では変化がほとんど見られないが、大阪では1939年~1942年までに男子50g女子40g程度減少がみられ1942年(昭和17年)以降は70gも減少している10)。
以上より、乳汁栄養法ならびに栄養状態に地域差があったと考えられる。
1940年には「牛乳及び乳製品配給統制規則」が施行され、牛乳・乳製品は母乳が足りない満1歳以下の乳児にのみ配給されるだけとなった。それも戦争が長期化すると、乳牛の飼育が困難になった11)ため、山羊乳の利用が奨励されたが授乳状況は不明である。
以上のように戦時体制下においては、東京の京橋地区では、母乳栄養率が45%前後に減少した。しかし、長岡市では、母乳率は80%を維持していた。
一方、新生児体重は東京では変化がほとんど見られないが、大阪では、1942年以降は70gも減少している。この状況から推察すると、乳汁栄養法ならびに栄養状態に地域差があったと推察される。
【注】
①出生児1000人に対する1歳未満の乳児の死亡率:
(年間の乳児死亡率)=1000×(年間の乳児死亡数)/(年間の出生数)
②厚生省(現厚生労働省)は1938年1月11に設置され、それ以降「産めよ増やせよ」をスローガンに「人口政策確立要綱」(1941年1月22日)や「国民医療法」(1942年2月25日)などによって、保健所を中心とする育児知識の普及が進められた。
こうした保健政策は、1937年7月7日に日中戦争、そしてアジア・太平洋戦争(1941年12月8日)へと流れていく中で、国家総動員法(1938年4月1日制定)による「国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最モ有効ニ発揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スル」総力戦体制と結びつき推進されたといわれる。
③ 1道9県における母親2982名対象
④ 1道9県における母親6394名対象
【引用・参考文献】
1)真鍋智江、2019、「総戦力体制下における乳児死亡率の低減―愛育研究所保健部による乳児栄養の改善をめざした研究に焦点をあててー」、『日本子ども社会学会紀要』、第25巻、147-165。
2)森山豊、1941、「母乳不足の原因と其の対策」、『日本医事新報』、第1003号、22-24。
3)森山豊、1942、「妊産婦、授乳婦の栄養」、『食養研究』、第14巻、第5号、2-10。
4)森山豊、1944、「妊産婦の栄養対策並びに栄養指導」、『産科と婦人科』、第12巻、第8号、 11-17。
5)加藤種一、1942、「二三地方別ニ見タル母乳成分調査成績」、『児科雑誌』、第48巻、5号、640-641。
6)加藤種一、1943、「二三地方別ニ見タル母乳成分調査成績2」、『児科雑誌』、第49巻、6号、490-492。
7)今村栄一、2005、『新・育児栄養学』、第2版、252、日本小児医事出版社。
8)武藤静子、1944a、「乳児ビタミンC源としての青菜蒸絞汁」、『日本医事新報』、第1142号、10-11。
9)武藤静子、1944、「人工栄養児のビタミンC補給の仕方(1)」、『栄養と料理』、第10巻、第11号、28-31。
10)(金子・丸井 1984)金子俊、丸井英二、1984、「戦時下における国民栄養調査(昭和18年「国民栄養ノ現況ニ関スル 調査報告」)」、『民族衛生』、第50巻、第3号、156-165。
11)東四柳 祥子、2013年、「日本におけるミルクの歴史」、『ファクトブック』、10、
https://www.j-milk.jp/report/study/h4ogb400000011y2-att/h4ogb4000000120f.pdf
(2024年7月10日アクセス)。
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