【おっぱいは誰のもの?―乳児栄養法の変遷②】  明治時代から大正時代~おっぱいは近代化の波にのったか

明治時代から大正時代(近代)~おっぱいは近代化の波にのったか

明治時代になると近代化に伴い、授乳に関する考え方は大きく変化していった1)この頃になると初乳が肯定的に評価され、胎毒説が力を失うことで、母と子が初めから乳で結ばれることが「自然なこと」になっていった。

明治時代は、急速な近代化・産業化という国家の方針、家制度の再編、学制の導入により子育ての状況が大きく転換した。

明治政府は富国強兵を目指し、それを学校教育の目標におき、すべての国民に定着させるために義務教育制度を導入し、子育ての中心的役割をこれまで担ってきた父親から母親に移行させた。

「国家―学校/家庭-子ども」という秩序のもとで、母親が家庭教育の担い手として育児責任を担うようになった。

ここに国家主導型子育て観の成立をみることができる2)。そしてこの子育ての中には授乳も当然ながら含まれる。

現在の子育ての基本的な形は、明治期に作られたと考えられておりその特徴は、

①子どもは親が育てるという強い意識、

②共同社会から家族を単位とする独立性の強まり、

③学校教育との密接なリンク、

である。

ところで明治時代は小児科学が移入され医学も転換期でもあった。

学問と同様に明治の育児書は翻訳をもって始まる(表1)3)

1874年~1895年までの約20年間は育児書の「翻訳期」3)ともいわれ、

米国、英国、ドイツの育児書が約20点翻訳出版された。

江戸時代と共通する内容も多いが、大きな違いは読者対象父親ではなく母親に移ったことである。

医師が直接アドバイスする相手が母親に移ったのは、翻訳育児書によって初めて日本にもたらされた。

育児の責任は父親に代わって母親がもつ存在になった。

これにより授乳の勧めと授乳忌避への非難は直接母親が受けることになる。

つまり翻訳育児書は、社会全体が子育てにおける母親の責任を重視する契機を作ったとの見方もできる4)。加えて「養育責任―母親の役割」の言説は、欧米、特に19世紀米国の女性の活動家を背景に成立し、来日婦人宣教師を通して日本に受容された影響も少なくなかった5)

しかし、こうした状況、特に翻訳育児書、国産育児書は医師や教育者が上流・中流階級向けに著したものである。したがって育児書の内容が広く国内で共有されたわけではない。なおこれらの育児書では「母乳がよい」とされているが、明治以降富裕層では乳母を雇う習慣が続いており、乳母の選び方に細かく注意が記され、その内容も江戸時代と変わらない。乳汁栄養法においては、これらの育児書のほとんどで、母乳で育てるのは自然だから一番よいとし、それが無理なら乳母、それが無理なら牛乳(もしくは獣乳)、コンデンスミルク、穀粉という順番で記されている6)

図1.明治時代(1868~1912年)の乳汁栄養法

明治~大正時代の主な育児書(参考資料3

近代の日本で、小児科学の研究が進み科学的な育児指導や栄養指導が始まったのは、1907年以降とされる。

乳児栄養法(乳汁栄養法:以下同様)は母乳栄養が主流であり、母乳不足の時には、乳母または貰い乳による人乳でのサポートが行われた。

しかし日本の乳母制度は明治時代になってから強い反対を受けるようになる。

その理由として乳母の社会的地位は低く子どもの教育への影響が懸念され富国強兵政策にそぐわない面があったことがあげられる。

一方、女性自身の職業選択も変化していく。近代経済システムへと変化する過程で女性の雇用形態が多様化したため、奉公以外に決められた労働時間や賃金で雇用される新しい仕事を選択する機会が増え乳母以外の仕事を選択するようになっていったのである7)

図 2廃乳についての統計的観察
(n=198:人) 平井郁太郎,
『わが国における乳児栄養法の変遷』児科雑誌,60号
:812,1905(明治38年)

 

この時代には、栄養不良や消化不良のほかに、乳児脚気、脳膜炎、くる病などが乳児栄養の問題となった。

人工栄養は、消化不良症を引き起こすことがあり、死亡率が高かった。明治時代に加糖練乳(コンデンスミルク)が輸入され、国産品も製造されたが、20~40倍に薄めて用いられた。牛乳は生産量が少なく、衛生面でも問題があった8)。しかしどのくらいの乳児が人工栄養をされていたかは明らかではない。「廃乳」(母乳を失うこと)について研究した結果(図2)から推察しても明治時代は人工栄養児が珍しかったので、研究対象になったと考えられている9)

1917年に初めて国産品の育児用粉乳(キノミール、和光堂)が発売されたが、その後も粉乳の利用は多くなかった8)。大正時代に入ってからは乳児栄養に関して2~3の報告がみられる(3)。ここからも人工栄養児がまれであったことがわかる。

図4.大正時代(1912~1926年)の乳汁栄養法(基本栄養品)

大正時代の乳汁栄養法は人乳がほとんどであった(図4)

ところで近代家族の特徴は、大正期に都市部に登場した新中間層の家族においてみられる。

資本家でも労働者階級でもない中間の階級的位置を占める階層であり、頭脳労働、俸給という所得形態、生活水準の中位性が特徴とされる。

新中間層の家族は、

①生産と消費の分離

主婦としての女性の役割の強化

子どもへの教育的配慮

いった特徴をもつ。

他方、農村や漁村などでは子守を雇い、母親も生産労働に従事するなど、育児の方法は地域によって多様であった。

病気やけがなどで子どもが命を落とす場合も多く、子どもの生存を左右する授乳や健康管理が重視された。また子どもの成長儀礼を通して、家族、親族だけでなく近隣の人々もかかわって子どもの成長を見守った。乳付(ちづ)け親や帯の親、とりあげ親、名付け親、拾い親など多くの仮親(かりおや)をとる風習があったのは、共同育児の象徴と考えられる。

なお母乳を与えることができないときは、第一は乳母を求める。生後3~4か月ごろまでは乳母の乳で養うのがよい。半年以上たって健康ならば人工栄養でもよいとの記述もある8)

このように明治時代から大正時代も、人乳が中心である。しかし人乳のなかでも、母乳が強調された。

これは急速な近代化・産業化という国家の方針、家制度の再編、学制の導入により子育ての責任は江戸時代の家長から母親中心へと状況が大きく転換した影響である。経済格差による違いは存在したが、一般には母乳が主であり、なお母乳を与えることができないときは、第一は乳母を求める。生後3~4か月ごろまでは乳母の乳で養うのがよい。半年以上たって健康ならば人工栄養でもよいとの記述もある8)

このように明治時代から大正時代も、人乳が中心である。しかし人乳のなかでも、母乳が強調された。これは急速な近代化・産業化という国家の方針、家制度の再編、学制の導入により子育ての責任は江戸時代の家長から母親中心へと状況が大きく転換した影響である。経済格差による違いは存在したが、一般には母乳が主であり、不足しているときには、乳母または貰い乳のサポートが主に行われた。

【注】

①母親の子宮から出てくるときに、子どもが口の中に含んでいる黒くネバネバしたもので、これには強い毒があると江戸時代にはされていた

②母乳栄養児の母乳由来ビタミンD欠乏症

③母乳栄養児の母乳由来のビタミンB1欠乏症

④母乳栄養児の母親のおしろいに含まれていた鉛による中毒

⑤女の子が五歳、または三歳になった祝いの時に設ける仮親、妊娠五か月目の帯祝いのとき妊婦に帯をつけてあげる人。

【引用・参考文献】

1. 梶谷真司、2009「母乳の自然主義とその歴史的変遷–附 岡了允『小児戒草』の解説と翻刻」『帝京大学外国語外国文化』、第2号、87-163。

2. 吉岡眞知子、2005、「明治期における近代学校教育制度の成立と子育て観」、『東大阪短期大学部教育研究紀要』、第3号、1-3。

3. 横山浩司、2003、「日本近代・育児書目録」、法政大学社会学部学会、『社会志林』、 第502号、63-115。

4. 中田元子、2019、『乳母の文化史』、人文書院。

5. 内藤知美、1999、「近代日本における欧米の育児・保育論の受容と展開-養育責任に着目して -」、『「厚生 科学研究子ども家庭総合研究」、報告書 平成11年度』、13-20。

6. 梶谷真司、2010、「母乳をめぐる自然概念の歴史的変遷」、『日本医史学雑誌』、第56巻、第3号、456-457。

7. 石橋順子、2010、「乳母の衰退-明治以降の乳母制度―」、『言語と文化』、第11巻、第3号、51-67。

8. 今村栄一、2005、『新・育児栄養学』、第2版、日本小児医事出版社。

9. 宇留野勝正、1974、「我国における乳児栄養法の変遷」、『東京家政大学紀要』、第14集、147-154。

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