江戸時代-小児科学移入前(近世)~おっぱいを求めて
江戸時代の乳汁栄養法は、現在のように、母乳栄養と人工栄養という区分ではなく、人間の乳(人乳)という枠組みの中で生みの母の乳と他人の乳(乳つけ、貰い乳、乳母の乳、)の区分となる(図 1)。
図 1 江戸時代(中期頃:1700 – 1750年頃)の乳汁栄養法
江戸時代中期ごろまでは、生むもの=授乳するものではなかった(生むもの≠授乳するもの)。
江戸時代には「人乳」「女の乳」という言葉はあっても、現代のように、母と乳を結びつける「母乳」という言葉はなかった1)。
その背景として江戸時代には出産時に子どもが死亡しても母親が無事ならば安産とされていたことがあげられる。
つまり産婦死亡率の高さを反映している2)。
このように母親が出産時に死亡することが珍しくないという状況下では、母親のみに授乳を任せるのは困難であるため乳児死亡率も高かった3)。
さらに乳を与えられないための子捨て・子殺しが多かった江戸時代に「生類憐みの令」が出され、取り締まられるようになると、乳不足による子捨て・子殺しを避けようと、乳を求める傾向が強くなった。
このため子どもの命を繋ぐためには生みの親だけでなく人乳を供給できるようなネットワークの形成や乳母の存在が必要不可欠であった1)。
江戸時代中期に書かれた日本で最初の育児書といわれる香月牛山(1656~1740)の『小児必用養育草』においては、生みの母が授乳することを「天理の自然」と説き授乳すれば母子ともに健康に過ごせると勧めてはいるが、現実には、身体的理由によって授乳できない場合も多いとして、授乳しない母親を責める内容はない4)5)。
また日本で最初の一般庶民向け看護書といわれる平野重誠(1790~1867)の
『病家須知』6)においても、香月と同様に生みの母が授乳することを「天理の自然」として説き、授乳すれば母子ともに健康に過ごせると勧めている。
しかし乳が子に合わない場合、母親に病気がある場合、また舅姑父母の介護に時間がとられる場合には授乳中止もやむを得ないとしている。
ただし母親が「安逸怠(なまけおこ)情(たり)のために乳母を雇うことは認められない」としており母親へ授乳責任を求める兆しがみられる。
一方、幕末の種痘の普及に尽力した漢方医桑田立斎(1811~1868)による育児書『愛育茶譚』においては初乳の効用について説いており、生母による授乳が好ましいとしている。ただし現実には乳母雇用が広く行われているため、乳母の授乳を前提とした解説となっており、乳母を雇う母親に対する非難の兆しはみえない7)。
江戸後期以降、育児書等により、乳母(他人の乳)より実母の乳が勧められるようになる(図 2)。
図 2 江戸時代(後期頃:1750 – 1850年頃)の乳汁栄養法
しかし、江戸日本の育児書の著者たちは、授乳しない母親に対して非難の言葉を浴びせることはない。
この理由として、江戸時代の育児書の読者対象は、専門知識のない一般庶民であったこと、さらに江戸時代には看病は家長の役割であったことから育児書等の読者は父親であったためと推察される。育児書を読んで、母親に授乳させるか、乳母を雇うかの決定権は家長にあったため、母親自身がそのことの責任を問われることはなかったようだ8)。
ところで江戸時代後期になると人工栄養として乳粉(ちちこ)の使用が認められるが、現在のような人乳の代替にはなりえず一時的な栄養補給でしかなかった。したがって人乳が乳児の命を繋ぐものとなるが、生みの母以外の人乳には下記があげられる。
・乳つけ
生まれて初めて与える乳は他人からもらう慣習(通過儀礼)があった。乳を通してその人が持つ力を子どもにこめるという考え方に基づいており、共同体の絆の中で子どもが丈夫に育つための願掛けでもあった。
乳親または乳つけ親と呼ばれ、生涯にわたって疑似的親子関係を結ぶことになる。
また、江戸時代中頃までは出産後、母親の初乳には毒があるとされていたので、初乳を回避するための代理乳の役割もあった9)。
・貰い乳
村落共同体には、貰い乳というネットワークがあり、農民や下層武士においては出産後間もない乳の出る女性から乳を貰い受けることができた。上層武士では、母親の死亡や病気により、乳を子に与えられない場合には、知行地*(ちぎょうち)の百姓、雇い女、名主の嫁、への命令により乳を徴収した1)。
・乳母
人乳の重要性は、乳母(乳持ち奉公人)と呼ばれる自らの身体から出る乳を資本に生活の糧を得る奉公人を生んだ。このため江戸時代の乳母は身分の低い、貧しいものが多かった。乳母は出産歴がある女性(未婚または既婚)で、乳汁分泌が認められるものが前提であるが実際には、乳汁が出ないのに乳母と称して乳児を預かるもの、自分の子どもは乳汁を与えない(干し殺し)ものが奉公人になるなど様々な問題があった。
しかしながら現在のような母乳代替品(育児用ミルク)が得られない時代には、子の命を繋ぐために乳母の存在は大きかった。江戸時代は捨て子が多かったがその中でも乳を必要とする乳児が多く捨てられる傾向にあった10)。このため身分の高い上層階級や富裕な町家では、母親に代わって乳を与える乳母を雇ったり、里子に出し乳母に育児を託したりした1)。
今まで述べてきたように、江戸時代中期・後期の乳汁栄養は人乳(母の乳、乳つけ、貰い乳、乳母)が中心だが母乳にこだわりはなかった。
*知行地(ちぎょうち):江戸時代、大名が家臣に与えた土地のこと。封建的な主従関係成立の要件として権力者が服従者に分封した土地である。
【引用・参考文献】
1)沢山美果子、2017、『江戸の乳と子ども-いのちを繋ぐ』、吉川弘文館
2)鬼頭弘、2000、『人口から読む日本の歴史』、講談社学術文庫。
3)鳥取県立公文書館、2003、「江戸時代の出産と鳥取藩」、
『公文書館県史だより第86回県史だより』、
https://www.pref.tottori.lg.jp/item/787186.htm
(2024年6月24日アクセス)。
4)香月牛山、1730、「小児必用養育草」、
(2024年6月24日アクセス)。
5)香月牛山、2016、「小児必用養育草(しょうにひつようそだてぐさ)―よみがえる育児の名著」、中村節子(翻訳・訳注)、農村漁村文化協会。
6)平野重誠、1832、『病家須知』、(中村篤彦 看護史研究会翻訳、小曽戸洋監修)、
農村漁村文化協会。
7)梶谷真司、2007、「江戸時代の育児書から見た医学の近代化―
―桑田立齋『愛育茶譚』の翻刻と考察――」、「帝京国際文化」、第20号、65-118。
8)中田元子、2019、『乳母の文化史』、人文書院。
9)梶谷真司、2010、「母乳をめぐる自然概念の歴史的変遷」、『日本医史学雑誌』、第56巻、
第3号、456-457。
10)沢山美果子、2016、『江戸の捨て子たち その肖像』、吉川弘文館。
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